
セミナーで読んだリーディングスを、視点を変えて読み直すと、また新たな相貌が様々に見えてくるように思います。本稿では「現在を生きる」といった視点から、リーディングスを見直してみましょう。
まず想い起こされるのは、アウグスティヌスの『告白』(エグゼクティブ・セミナー/セッションⅣ「美と信」に採録)です。過去はもうなく、現在は瞬時に過ぎ去り、そして未来は未だ来ないのだから、過去も現在も未来も実はないという常識的な時間論を、彼は一方で語っていました。しかし他方、いや過去は記憶に、現在は直観に、未来は期待においてあるのだから、過去現在未来どれもあるという、新しい時間論も指摘していたわけです。つまり、時間はないという理解と、時間はあるという理解と、この2つの時間論を並べて語っていました。そして前者が後者によって駆逐されるというのではなく、両方の時間の見方があり得るというところに開くのが、アウグスティヌスの論意だったように見えます。
アウグスティヌスを受けて、我々自身問いたいのは、現在を我々は果たしてリアルに感じて生きているか、ということでしょう。リーダーの皆様にとって、過去は数々の業績とともに記憶にあるし、未来は、仕事の計画を組み立てていく上でリアルなものでしょう。しかし現在はどうか。これは直観されると言っても、瞬時に過ぎ去るものに過ぎない。これを我々はリアルに体験しているでしょうか。
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鈴木大拙の『東洋的見方』(ヤング・エグゼクティブ・セミナー/セッションⅢ「ヒューマニティ」に採録)は、この点で示唆的でしょう。「無始無終も何もあったものではない。攫(つか)みどころのない空漠漠たる概念を並べることの代わりに、現在ここに、生き生きとしたもの、これを両手に握りしめて、われらの面前に、さらけ出してみせる。これが禅である」と喝破していました。
座禅をしてみて、すぐ誰でも気づくことがあります。それは、我々の意識が現在に集中せず、心ここにあらずだということです。四方八方あらぬ方向に飛んで行き、平たく言えば妄想が次から次に浮かんでは消えて行きます。数息観という、一呼吸ずつゆっくり「いちー」、「にー」と数えて十まで言ったらまた一にもどって「いちー」と、数に集中する基本の瞑想法がありますけれど、これなど、仕事の失敗とか、相手に失礼なことを言ったんじゃないかとか、過去のことをくよくよ想い起こしているかと思えば、明日誰にあって、どういう会議があるが、こうすると失敗するから気をつけねばいけないとか、思いは千々に乱れて、ふと気がつくと十で折り返すのを忘れて、二十とか三十まで数えている。今ここの一・二という数にすら集中できていないことに気づくわけです。

何故そうなるかには色々な説明があるでしょう。太古の時代から過去の失敗をくよくよ反省し、未来の危険にも思いめぐらす用心深い個体が生き延び、あまりノーテンキな個体は野獣に食い殺されてしまっただろうから、後者の遺伝子は淘汰されてしまった。ダーウィンの『種の起源』(エグゼクティブ・セミナー/セッションⅡ「自然・生命」に採録)に、後のメンデルの遺伝法則や、20世紀のDNA説を結び付けた、現代の総合説の立場からは、概して生き延びたのはマイナス志向で過去・未来に思いを馳せる遺伝子だと言えるかも知れない。また受験勉強や出世競争で、未来にどういう成果を出すかについてしっかり計画を立て、現在はその将来のための準備期間として、楽しみを先延ばしにする。そういう性癖が我々には染み付いているかも知れません。その傾向は、キリスト教、特にカルヴァン派プロテスタンティズムの倹約と勤勉のエートス、現世の天職に励み成功することによって、予定されている来世の救済の確証を得ようとする精神において、極端な形で現れたというのが、リーディングスに採用されてはいませんが、御存知、M・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の仮説でした。
その結果、たしかに西洋の産業経済は進展し、科学技術はめざましい成果をあげました。しかし、それで見失われたものが東洋には残っている。その重みをもう一度顧み、そこに立ち帰る必要もあるのではないか。それが、岡倉天心の『東洋の理想』(エグゼクティブ・セミナー/セッションⅠ「世界と日本」に採録)の指摘でした。「〔今ここにゆったり生きることを旨とする〕アジアの簡素な生活は、〔前のめりの計画と進歩にせかされる〕蒸気と電気が発展したヨーロッパに対して、ごうも恥じることはない」と言い切った天心は、今ここに生きることの掛け替えのない重みを、次の故事を引いて我々に突きつけていました。すなわち、世界中、シヴァ神を探して発見できなかった金剛菩薩が、仏陀から、《ここにいるお前自身が、そのシヴァ神だ》と言われ、たちまちにして大悟したという故事です。
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今ここではなく、いつかどこかに探していたものが、実は自分自身の内にあったことの発見。過去未来ではなく、今ここの現在に生きることのリアリティ。そこに輝き出る力、喜び。それなくしては、過去の後悔も未来の計画も、実質のない色あせたものに成り下がる。総じて芸術や宗教は、「美と信」のセッションで見るとおり、そうした<今ここ>に焦点を合わせてそれを経験し切ることを旨としていたのではないでしょうか。
一例として、芭蕉の『おくのほそ道』(エグゼクティブ・セミナー/セッションⅣ「美と信」に採録)の一句、「あらたうと青葉若葉の日の光」を想い起こせば、《ああ尊いことよ。この日光山の霊域の青葉若葉に降りそそぐ、明るく輝く日の光は》というこの句は、元禄ふたとせ、1689年、今から336年前の、卯月ついたちですから陽暦の5月19日、日光山の初夏の照り返しの中で芭蕉を襲った感激を、千分の一のシャッタースピードで描き取って、現代の我々をもその瞬間の感激へと誘います。芸術や宗教は、あるいは哲学や古典のテクストは、我々がともすれば日々の忙しさのなか、後ろ向きの反省と前のめりの計画に生きる習慣にかまけて忘れがちな、こういう瞬間に、しっかと根を下ろして生きる技法を教えているのではないでしょうか。恐らくリーダーという存在は、過去の反省と未来の計画にたけた人であるとともに、こうした古典の最も良質な部分を体得し、他でもない、今ここをこそ生きることによって、現在に輝いている人にほかならない。~~そんなメッセージが、今道友信先生・本間長世先生によって編集されたこのテクストたちのリーダーシップ論の、根底に流れているものの1つなのではないでしょうか。
これは、申すまでもなく、思索だけでなく体験の事柄です。余り宗教臭くなく哲学的に、しかも実際の体験の技法についても語っている書物をお探しの方がおられれば、『マインドフルネスの背後にあるもの—存在神秘の覚醒をめぐるクロストーク』(サンガ、2019年)をお薦めします。哲学者の古東哲明氏が中心となって、禅僧の藤田一照氏たちと著した本です。<今ここ>・現在ということを感じ、また考える上で、示唆に富む快著だと思います。
関根清三(せきね・せいぞう)
倫理学者・東京大学名誉教授
1950年東京生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業、同大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻博士課程修了。専門は旧約聖書学、西洋倫理思想史。旧約聖書を哲学的解釈で捉え、新たな読み方から現代が抱える諸問題を考察する。著書に『旧約における超越と象徴』『ギリシア・ヘブライの倫理思想』『旧約聖書と哲学――現代の問いの中の一神教』『内村鑑三――その聖書読解と危機の時代』など。


