リーダーにとって「美しく生きる」ことの意味【瀧一郎先生】

ギリシャのアテネ・アカデミーの正面玄関に建てられたソクラテス像(提供:Shutterstock)
(1)動物のように「ただ生きる」

 「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、善く生きる(eu zēn)ことなのだ」(プラトン『クリトン』48b)。紀元前4世紀、無実の死刑囚ソクラテスが、脱獄を勧める旧友クリトンを諭して語ったこの言葉は、今でも通用する哲学の重大命題(テーゼ)です。「ただ生きる」とは、生物としての生存を保つこと、動物のように本能・・のままに生き延びることです。この「ただ生きる」ことを身体・金銭・名誉への愛求として促進するのに、科学・技術が役立ってきました。科学技術が高度に発達した現代の文明社会でも、その恩恵にあずかり快楽を享受するわれわれは、依然として「ただ生きる」ことを合理的に追求しています。人工的な延命措置によって、回復の見込みがない末期患者の死を少しでも先へ延ばそうとする先端医療といえども、生命の質Q O L()はさておき、とにかく「生かしておく」ことに第一の価値を認めています。

 今日「ただ生きる」ことは、オルテガのいう「大衆」の生き方であるとも言えましょう。この哲学者は、人間を二種に分類して、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負いこむ人」と「自分になんら特別な要求をしない人」とに区別していますが、後者こそ「いかなる瞬間も、あるがままの存在を続けて、自身を完成しようと努力しない、いわば波に漂う浮草」(『大衆の反逆』7, 5-7〔数字は「ヤング・エグゼクティブ・セミナー」テキスト7頁, 5-7行の引用を示す、以下同様〕)、すなわち「ただ生きる」ことにとどまる「大衆」にほかなりません。とくに民主化による等しさ・・・と産業化による豊かさ・・・とを過度に追求してきた戦後の日本では、「平均人」として「ただ生きる」ことに満悦する凡庸で低俗な「大衆」がひしめいて、「高度大衆社会」(西部邁)が実現しています。オルテガの危惧は、まさにビジネス文明に翳りが生じ始めた戦後日本に適中するようです。

(2)人間らしく「善く生きる」

 「人間」は「動物」とは異なります。アリストテレスは人間を「理性的動物」と定義し、モンテーニュは「理性は……われわれをよく生きる(bien vivre)ようにさせる」(『エセー』3)と随想しますが、論理的な「幾何学の精神」と直観的な「繊細の精神」とを区別するパスカルは、人間を「考える葦」という詩句で規定します。「人間はひとくきの(あし)にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。……われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。だから、よく考える(bien penser)ことを努めよう。」(『パンセ』5, 2-10)人間らしく「よく生きる」とは、「よく考える」ということでしょう。動物のように体の世話をして「ただ生きる」のではなく、人間らしく魂の配慮をして「よく生きる」こと、すなわち本能(行動)に従って身体をただ保持するのみならず、理性(思考)を使って精神をよく改善することが大切です。

 魂を磨いて徳(魂の善さ)を養い、人間らしく「善く生きる」ためには、「善美」について知ることが必要でしょう。「自分が最もすぐれた知者である」というアポロンの神託を受けたソクラテスは、その神意を推し測りかねて、評判の知者(ソフォス)を訪ね問います。その結果、「私達は二人とも、善についても美についても(kalon kagathon)何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない」(プラトン『ソクラテスの弁明』3, 21-24)という「不知の自覚」に立ち至ります。この「不知の自覚」からソクラテスは、愛知者=哲学者(フィロソフォス)として「善美」の探究を始めます。そのときソクラテスは対話の相手に「何が美しいか?」ではなく「美とは何か?」と問いかけた、つまり普遍的な価値理念(イデア)としての美そのものを問いただそうとしたはずです。

(3)リーダーとして「美しく生きる」

 道徳・哲学を離れて、芸術・宗教に移ると、そこには「美しく生きる」人々が見出されます。美と芸術のうちに暮らす、禅の老師(リーダー)の美しい生き方を想起しましょう。鈴木大拙は、禅仏教の「美至上主義(エステチシズム)」ほど根本的なものはないとして、禅宗と芸術との強い結びつきを語ります。「道徳は規範的だが芸術は創造的である。一は外部からの挿入で、一は内部からの抑えがたい表現である。禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳(アンモラル)ではあっても、無芸術(ウィザウト・アート)ではありえない。」(『禅と日本文化』p. 9)あるいは松尾芭蕉のように「片雲(へんうん)(かぜ)にさそはれて、漂泊(へうはく)の思ひやまず、……そゞろ(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて」(『おくのほそ道』3, 3-6)歌枕を訪ね「奥羽長途(あううちやうど)行脚(あんぎや)」に出た俳聖もまた、芸術と宗教にまたがる旅としての人生を「美しく生き」(おお)せた文学リーダーの一人と言えましょう。

岩手県平泉町、中尊寺に建てられた松尾芭蕉像(提供:Shutterstock)

 ベルクソンは最後の主著の掉尾を飾って言います。「人類は、まず第一に、自分は生き続けようと欲しているかどうかを考えてみなければならぬ。次に、人類が自ら問うべきことは、自分は、ただ生きて行くことしか欲していないのか、それとも、神々・・を作るための機械である宇宙の本質的機能が……充分に遂行されるのに必要な努力を提供しようと欲しているかどうかである。」(『道徳と宗教の二源泉』7, 20-24傍点論者)難解な文章ですが、要するに〈人類は「ただ生きたい」のか、それとも「善く生きたい」のか、自問せよ〉ということらしい。けれども仏語原文の末尾に意図的に据えられた単語は、小文字で複数形の「神々」(des dieux)で、これは犠牲や献身の努力をなす「諸聖人」(ジャン・ギトン)と解されるので、ここは〈小さな神々である諸君よ、人類はむしろ「美しく生きたい」のではないか、自問せよ〉との謂いでしょう。今や焦眉の急を要するのは、世界の戦場化ではなく美化なのです。

 ソクラテスの刑死、キリストの磔刑、ブッダの捨身飼虎しゃしんしこなど、自己犠牲に甘んじて命を放擲(ほうてき)した英雄や聖人は、「美しく生き」抜いて人類のリーダーとなりました。このように「美」を犠牲の「羊」が「大きい」会意文字とみる今道友信は、「美は道徳上の理想的な徳である善よりも上位にあって、宗教上の理想的な徳〔である聖〕として存在する最高理念である」(『美について』p. 213)として、「善く生きる」よりも「美しく生きる」ことに憧れます。「最高の価値としての美は、いわば己れを(むな)しゅうして人類のために、どんな小さなことでもよいから、愛を(もつ)てなしとげてゆこうとする希望に満ちた生き方の中に(とも)された、そういう輝きなのである。」(同書p. 235)愛もて「美しく生きる」勇気を鼓舞する言葉ですね。「里仁為美」(『論語』)も「仁に()らば()を為す」(愛が善を超えて美を実現する)と訓じて、今道は「美しく生きる」希望を語ります。聖人君子ならぬ我が身たりとて、アスペンの古典的テキストに学んで、今ここ(hic et nunc)を「美事(みごと)に生きたい」と念じるものです。