
アスペンのテキストでは、「自然」とそこに生きる「人間」とのかかわりがよく扱われます。今回は、三人の著者の見方を紹介しながら、「自然」についてあらためて考えてみたいと思います。
(1)カントの「自然」
カントは『道徳形而上学の基礎づけ』1で、道徳学は自然学とは異なると語ります。しかしそれは、「人間」の道徳は「自然」と関係ない、という意味ではありません。カントにとって道徳的な理性は、「自然」によって「人間」にあたえられたものだからです。その際カントは、「自然」が「人間」に、とてもめんどうな役割をあたえているのだと考えます。つまり自然は人間に、動物的な欲望という「自然(本性)」とともに、道徳的な理性という「自然(本性)」もあたえました。
このぶつかり合うふたつの自然的な素質のために、人間が何かをしようとすると、(その人間に理性があればですが)、頭のうえで悪魔と天使が言い争う対抗関係が生じてしまいます。けれども、「自然」がわざわざ計画的に生じさせているこの葛藤を解決していくことで、人間だけが自分たちの手で共同社会を作れるのです。人間の素質を安楽に眠ったままにさせず、自力で公共世界を作らせるのが隠れた「自然の意図」なのだ、ルーミー2の言う「うつけ心」からたたき起こされて、「あえて賢かれ」という啓蒙を実践しようとする善意志があり、道徳的な人間の社会や世界はその意志による行為の先にしかないのだ、というわけです。
カント的には、自然法則はそもそも世界を理解しようとする人間側の理解形式でしかありません。物理法則は「自然」そのものではないのです。かといって「自然」は、人間に好き勝手を許してくれるような慈母でもない。むしろ自然は厳父のような叡知として、人間に(自由を認めつつも)社会的な使命を課してくるものなのです。『純粋理性批判』の扉にカントがかかげているのは、「知は力なり」で有名な、デューイ3も参照したフランシス・ベーコンです。しかしこのことばは、「人間」が力づくで「自然」を支配できる、という意味ではありません。ベーコンの原文は、「われわれ(人間)は自然に従うことによらなければ自然を統制できない We cannot command Nature except by obeying her.」なのです。
近代理性主義の典型のように見られながら、じつは「人間理性の批判」を真骨頂とするカントは、「人間」理性のおごり高ぶりを手きびしく批判して、隠れた「自然の意図」を達成すこと、その意味では父なる「自然」に従って理性的な努力をつづけることを、「人間」に求めているのだと言えるでしょう。
(2)ソローの「自然」
最初にクイズをします。『ウォールデン』4のソロー、『余は如何にして・・・』5の内村鑑三、ミル『女性の解放』6を監修したコイト、そしてアスペンのテキストを編纂した本間長世、この人たちの共通点は何でしょうか。その答えは、彼らがみな、ソローが住んだコンコード地方の西方にあるアマースト大学の卒業生だということです。初期アメリカの中心はそれらの地域を含むニュー・イングランド、その中心都市はボストンでした。独立戦争が「レキシントン・コンコードの戦い」から始まったのも有名な話です。そしてアマースト大学やコンコードを代表する文化思想といえば、まずは「コンコードの聖人」エマーソンの「超絶主義 transcendentalism」になるでしょう。アマースト大のシーリー総長も超絶主義を尊重していました。ソローはエマーソン家の書生でした。エマーソンの子どもを教えたのは、コンコードの風土を彷彿とさせる『若草物語』のオルコットです。
エマーソンはプラトンやカントの超越論的(transzendental)哲学、英国理想主義などに触発されて、コンコード地方に移り住み、『自然』というエッセイを書きました。「自然」と「人間」はまるで印章と印影のように一致していて、自然の美しさは人間精神の美しさそのものだ、とエマーソンは語ります。「森のなかで、わたしたちは理性と信仰をとりもどす。そこにいれば、わたしは自分の人生のなかに、自然がつぐなえないようなことは何ひとつない・・・と感じる。むき出しの大地に立つと、・・・どんないやしい自己執着も消えうせる。わたしはひとつの透明な眼になる。いまやわたしは無となり、わたしにはいっさいが見え、「普遍者」の流れがわたしの全身をかけめぐる・・・」。ああ、これはまるで『ウォールデン』のソローそのものだ、と思われるでしょう。ソローはエマーソンと並んで「超絶主義」の代表者なのです。
けれども他方で、ソローにはエマーソンと少し異なるところもあります。ソローは「自然」を語りません。ソローは「池」を語り、「冬の動物たち」を語り、「春」を語ります。しかし彼は「自然」という概念を語らないのです。ソローにとって森での「深々とした」生活とは、動物の息づかいとか樹木の手ざわりのように、生き生きとして具体的な野生の現実にとり囲まれていることでした。そう考えてみると、『ウォールデン』は、都会の人工的な近代生活への批判だけでなく、「自然」を抽象化して一般的に語ろうとする近代理性への批判とも読めるでしょう。「自然」は、大いなる神秘の「普遍者」かもしれませんが、それを科学的な客観性のように扱ってはならず、むしろ現実にあたえられていながら、しかも語られてはならない深い神秘こそが、「自然」ということなのでしょう。
(3)大拙の「自然」
アスペンのテキストでもむずかしいと言われる鈴木大拙の『禅と日本文化』7ですが、その理由のひとつは、禅仏教と日本の芸術論がまとめて語られているからです。しかし、見落とされがちなもうひとつに、大拙の「自然」観があるかもしれません。大拙は、「わたしたちの心のなかには、みな自然の生活状態に遠くない原始的単純性に対して、生得の憧憬を持っている」、「人間の力で動かぬもの、人間の考えのままに働かぬもの、人間の智で測られぬものがあるとして、これを自然と名づけておこう」、とも語っています。
この「自然」は「西洋のネイチュア」のような、自己(主体)に対する客観的存在(客体)ではありません。大拙の考える「自然」は、何かに対して存立しているようなものではないのです。「自他を離れた自体的、主体的なるもの、これを「自然」というのである。」この主客未分、己に即している自然の本来のあり方(真如)を知ることを、大拙は『東洋的な見方』のなかで「無分別智」と名づけています。それはまた「自然智」とも言いかえられるでしょうが、この「自然」、「無分別智」、「自然智 svayaṃbhujñāna」は仏教に由来する語なので、読み方もそれぞれ、「ジネン」、「ムフンベッチ」、「ジネンチ」となります。「自然(ジネン)」が、「自ずから然り」、つまり「本来あるようにあること」を意味することから、「自然智」も、主客未分である世界の本来のありかた(真如)を知ること、ないしは「自己自身で得た無師独悟の智」とされますが、しかしどちらにしても、それは山川草木の情景のような「西洋のネイチュア」ではないはずなのです。
しかしどうも大拙の「無分別智」には、山や森のなかでの「山林修行」という意味での、山川草木の「自然」も含まれているように思われます。大拙は加賀の金沢に生まれ育ちましたが、加賀の白山は日本三霊山のひとつで、修行者による山岳信仰の中心地です。奈良時代に、泰澄大師が山中で「自然智」行を完成し、今も「自然智の森」を標榜する那谷寺の開祖となったそうです。自然智行とは、「山や森を歩きながら(歩行)、見える世界と見えない精神世界の融合を感じる山林修行」だとも言われます。金沢はこの白山信仰が身近に感じられる土地であり、たとえば同郷の泉鏡花が白山信仰に帰依していたことは有名です。

大拙も、修験道とまではいきませんが、「禅院は通例山林の間に在るので、そこに住むものは「自然」と密接な接触をする」、「「山や雲の精神」がその作品のなかにおだやかに息づいている」、と言い、『日本的霊性』のなかでは、「人間は大地において、自然と人間との交錯を経験する」として、田舎や山林での「大地生活」で得る「大地的霊性」の重要性を語ります。こうしてみると、大拙の「無分別智」は抽象的な仏教理論であると同時に、山川草木の「自然(シゼン)」のなかで「自然(ジネン)」の世界に帰依する「自然智」という、重層的で複雑な霊性をもっているとも言えるでしょう。
三人の思想家の「自然」観のどれを見ても、「人間が」制御したり支配できるものを超えた、「人間の力で動かぬもの、人間の考えのままに働かぬもの、人間の智で測られぬもの」としての、深い「自然」への傾倒が感じられます。セッションでの活発な対話が一段落したところで、ゆっくりとそれぞれの「自然」観にひたってみることも、アスペン・セミナーでのだいじな経験ではないかと思われます。
- カント『道徳形而上学の基礎づけ』 ヤング・エグゼクティブ・セミナー/セッション「認識」収録 ↩︎
- ルーミー『ルーミー語録』 エグゼクティブ・セミナー/セッション「美と信」収録 ↩︎
- デューイ『哲学の改造』 ヤング・エグゼクティブ・セミナー/セッション「認識」収録 ↩︎
- ソロー『ウォールデン』 同上/セッション「社会・デモクラシー」収録 ↩︎
- 内村鑑三『余は如何にして基督教徒となりし乎』 同上/セッション「世界と日本」収録 ↩︎
- ミル『女性の解放』 同上/セッション「社会・デモクラシー」収録 ↩︎
- 鈴木大拙『禅と日本文化』 エグゼクティブ・セミナー/セッション「美と信」収録 ↩︎
大橋容一郎(おおはし・よういちろう)
上智大学名誉教授、ケーベル会会長。上智大学大学院哲学研究科博士課程出身。専門は、カントや新カント学派を中心とした近世現代哲学、文化交渉学。大学では長年にわたり「認識論」、「近世哲学史」などを教えた。またさまざまな概念の基礎づけを重視し、『広辞苑』、『哲学・思想事典』、『世界人名大辞典』、『カント事典』などの辞典の編集を行ってきた。最近の出版書として、『道徳形而上学の基礎づけ』(岩波文庫)、『プロレゴーメナ』(岩波文庫)、『新カント派の哲学と近代日本』(共著)、『フィヒテ伝』(共訳)、『アルムブルスター哲学思想論集』(監修執筆)などがある。


