
自分には方言がない
もう何十年も前、フランス語を教えに行っていた大学の非常勤講師控室で、あるドイツ語の先生――だったと思う――とよもやま話をしていて、ふと、自分には方言がないと言ったところ、「可哀そうに」とことばを返されたことがある。人間の出自の場所に根ざし、そのアイデンティティの核となる言語、それが方言だという考えをその先生はおもちで、そこから、方言をもたないのは、自らの根拠を喪失した不幸なあり方だと思われたようだった。
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しかし、どうして私には方言がないのか。
私の父は福岡県の出身で、大学に入学してはじめて東京に出た。卒業後は東京に本社を置く大手企業に就職し、職業生活でも家庭生活でも、わずかな訛りはあったが、いわゆる「標準語」を使用し、それにわだかまりを見せることはほとんどなかった。
母の方は山梨県出身だったが、女学校から姉弟たちとともに中央線の沿線に住んで山手線の内側にある学校に通っていたので、東京のことばを話すと自負していた。もっとも夏休みに三つ峠の麓にある母の実家に行ってみると、母の話し方にお国訛りが残っていることは歴然としていた。
それはともあれ、父と母は家庭ではお互いの共通語である標準語――と彼らが思っていたことば――を話していたから、私は両親とりわけ母から口移しでそれを教えこまれたことになる。私にとっては、標準語が生まれついての自然のことばだったのである。
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それだけではない。幼児や児童は、親戚や近所の大人や子どもたちとの交際を通じて話しことばを習得していく。子どもは、血縁集団、地縁集団、さらには地域社会で通用していることばを我がものにすることによって、集団に包摂され、それに対する帰属意識を養う。ところでそこで共有されることばこそ方言、少なくともその萌芽である。その意味では、たしかに方言は人間のアイデンティティの重要な構成要素であると言ってよい。
多分問題は、私が血縁、地縁の希薄な環境で育ったことだろう。父が三男、母が三女であった我が家は、戦後の核家族のはしりであった。両親は昭和19年に結婚したが、旧民法のもとで、父の長兄の戸籍に所属していた。それが独立した戸籍をもつ一家となるのは、新憲法発布後の昭和23年のことである。両親がそれについて、何か感想めいたことを語るのを聞いた覚えはないが、記念すべき出来事だったに違いない。
さらに二人は、その数年後、渋谷区原宿に小さな分譲地を購入し、住宅金融公庫の初回――と聞いている――の融資を利用して新居を建て、二人の子どもとともに移り住んだ。ここに両親は名実ともに新たな家族を創設した、と言ってよいだろう。
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このような家庭に育った私は、祖父母と暮らしたことがなく、彼らの話を聞く機会はほとんどなかった。親戚づきあいもあっさりしていて、従兄妹たちと日常的に遊ぶことはなかった。
しかし何より私に欠けていたのは、近所の子どもたちとの交わりだった。新住民の我が家には、近隣の知り合いはなかった。また原宿の町自体、戦災にあって、戦前からの住民の多くは流出し、我が家のようなよそ者の住む地域になっていたのではないか。
おまけに教育ママであった母は、私を学区内の学校にやる代わりに、距離的には遠くなかったが、青山通りを越えた南青山にある幼稚園、さらには小学校に通わせた。
こうして私は下校後に群れて遊ぶ仲間をもつことがなかった。要するに私は、両親が多かれ少なかれ意識的に習得した標準語を家庭と学校で習い覚え、それ以外のことばがあることをほとんど知らなかった。

方言をもたない私は「可哀そう」なのだろうか
転機は、小学校4年で、父の転勤に伴って四国の高松に引っ越したときに訪れた。東京の山の手からやってきた子どもは学校で散々いじめられたが、その最大の口実は何と言ってもことば遣いだった。同級生たちが使う方言は、よそ者を自分たちから区別し、自分たちを結束させる標識であった。
ところが教室の中では、別の事態が生じた。授業は標準語で行われるのが建前だったからである。テレビが普及する以前で、記憶違いでなければ、国語の授業には標準語の時間が設けられており、アクセントの練習のときなどはモデル役を務めさせられた。それは奇妙で倒錯した経験だった。校庭ではいじめの原因となる抑揚が、お手本になるのだから。
小学生の私がそれにまったく誇りを感じていなかったと言えば、言い過ぎになるだろう。しかしそのとき、私の心を占領していたのは、とりわけ恐怖と居心地の悪さ、このおかげでまた休み時間にいじめられるという恐怖、そして自分の拠り所である声色とことば遣いを見世物にされるという居心地の悪さ、あえて言えば屈辱感だった。
その後も私は、福岡、神戸の小学校と中学校を経めぐり、似たような体験を重ねた。方言を敬して遠ざける傾向が私にあるのは、きっとそのせいだろう。
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さて、方言をもたない私は「可哀そう」なのだろうか。というより、方言から切り離された私は、自然から切り離された根無し草なのだろうか。
標準語はたしかに公教育とマスコミが作り出し普及させた文化的産物である。それに対して方言が自然の側に位置づけられるのは一理ある。しかし標準語であろうと方言であろうと、それをどのように習得するかという局面に着目すれば、違った見方もできる。標準語を母語として自然に習得することもあれば、方言を外国語のように自覚的学習によって身につけることもあるのだから。
自然と人為(習慣、ハビトゥス、文化)の二分法を固定して絶対視する考え方は根強いが、じつは両者の間には相互浸透の関係があるのではないだろうか。この点についてパスカルが示唆に富むことばを残しているので、それを紹介して結びとしよう。
「自然とは何か。どうして習慣は自然でないのか。もしかして、この自然それ自体、第一の習慣にすぎないということはないのだろうか。ちょうど習慣が第二の自然であるように」(『パンセ』断章126)

写真/秋山絵里菜
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