
教養人の復権を唱えたオルテガ
先日電車に乗っていたとき、吊り広告に「子どものためのリベラルアーツ」という言葉を見て、なるほどと感じ入った。幼稚園に入る前の子供を対象とした教育施設、いわゆるプリスクールの謳い文句である。「お受験」のための知識を詰めこむのではなく、のびのびと遊ばせることを通じて、その才能や感性を育てる。そういう教育を「リベラルアーツ」と呼んでいるのだろう。
ただし幼児教育に関しては、「お勉強系」と「のびのび系」に幼稚園を分類する言い方が前からあった。後者の「のびのび系」は、日本ではおそらく大正時代の自由教育に始まる歴史があり、その教育方針を継承する幼稚園や小学校は少なくない。「リベラルアーツ」と名づけられたのは、昨今、この言葉が世の中に普及してきたことの現われなのだろう。同じ名称の学部を新設した大学の例も目にするようになった。
だが元来の意味に立ち戻るなら、子供をのびのびと遊ばせるとか、学びたい科目を好みで選べるといった教育方針は「リベラルアーツ」とは呼べない。この言葉はヨーロッパで、古代ローマから中世の教会・大学に引き継がれた、自由学藝七科(septem artes liberales)に由来する。これがリベラルと呼ばれるのは、特定の職業の訓練という目標に縛られないからであり、奴隷身分に属さない自由人である市民が身につけるべき学問・技藝として、あらかじめ文法・弁証術・音楽など七つの科目が定まっている。
日本の大学は戦後の改革を通じて、「一般教養」科目を、特定の分野の専門科目と並ぶ教育の柱とした。職業訓練ではなく、また研究者の養成をめざすものでもないという点では、この「教養」もリベラルアーツと重なる。大学制度の改革を主導した終戦直後の東京大学総長、南原繁はのちの回想において、「一般教養」の重要性を説いた同時代の著作として、ホセ・オルテガ=イ=ガセットの『大学の課題』(1930年。「大学の使命」とも訳される)を挙げている。東京大学総合図書館には、占領軍総司令部からの寄贈書として、この英訳書が収められている。南原らが戦後の大学改革を構想するにあたって、参考にしたのではないだろうか。
オルテガは『大学の課題』と同じ年に刊行した著書『大衆の反逆』で知られる、スペインの哲学者である。『大衆の反逆』も実際に読んでみると、題名から想像されるような大衆社会批判の書というよりも、専門知識に閉じこもる「科学者」を批判し、全体的な知見を備えた「教養人(文化人)」の復権を唱える性格が強い。その点で、両方の本の内容は深く呼応しあっている。

「世界像」を学ぶための五つの学問
『大学の課題』でオルテガは、先端的な学問研究にばかりこだわる大学人を批判し、研究者になるわけではない、普通の市民を育てるための教育の意義を説いている。そして大学教育においては、医学や法学に見られるような職業訓練よりも、クルトゥラ(cultura)――「教養」とも「文化」とも訳せる――の教育を中心に置くべきだとした。このクルトゥラの教育を中心に置き、さらに職業教育と研究活動を並行して行う形に、大学を変えようと提言したのである。
ただし、ここで言うクルトゥラの内容が問題である。現代の日本では、気ままに対象を選びながら、広く浅く知識を得ることが「教養」と考えられている気配があるが、そういうものではない。オルテガは大学におけるクルトゥラの科目として、物理学・生物学・歴史学・社会学・哲学の五つを挙げている。そこで考えられているのは、それぞれの学問の専門研究の訓練ではなく、学問が展開する「世界像」を学ぶことである。
たとえば歴史学の場合であれば、詳細な歴史研究の方法を学生に習得させるのではなく、研究を通じて明らかになった歴史の全体的な流れを理解させること。そのようにして五つの分野の「世界像」を身につけることを通じ、人は自分の周りに広がる世界のありさまについて、明確な理解をもちながら生きてゆけるようになる。この五科目はたしかに人文学・社会科学・自然科学と幅ひろい領域に関連するが、漠然と選ばれているわけではない。周囲の世界に一つひとつくさびを打ち込むようにして、世界の構造を理解する。その重要な手がかりとして、数が限られている。
アスペン・エグゼクティブ・セミナーのテキストの冒頭には、「アスペン『上級古典人文学校』」と題された、オルテガの短い文章が収められている。アスペン・インスティテュートがアメリカで発足するきっかけとなった、1949年のアスペンでの集会に参加したオルテガが、その直後に主催者へ書き送ったものである。そこでも、人文学(humanidades)の学校においては、少数の学科に科目を限定し、しかも大家の著作に限定して、それを集中的に学ぶのがふさわしいと説いている。この学校の構想は実現せず、代わりに現在まで続くようなアスペンのセミナーが生まれた。
選ばれた意味深いテクストを集中的に読み、さまざまな読みを試みながら討議してゆくこと。そうした方法は、単なる「教養」のつまみ食いとは異なって、参加者がそれぞれに自分の世界像を確かなものとし、現実に向けて行動するための判断力を豊かにするだろう。それは、学ぶ内容を自由に選べるという意味での「リベラル」ではない。しかし本来の意味での「リベラルアーツ」の伝統は、セミナーの営みに脈々と生き続けているのである。
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