
初めにお断りしなければならないことがあります。ある程度以上の年齢の方でないと、本文のタイトルの仕掛けがお分かりにならないはずです。『廣瀬中佐』という小学唱歌が戦前にありました。沈没の迫った艦内を、部下杉野兵曹長の安否を尋ね探して三度、遂に離艦が遅れ、敵弾に倒れ、「軍神」の名を与えられた廣瀬武夫を謳った歌です。「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」という句が歌の第一節を締め括るのです。それをお借りしました。
「腹」を心の在処としてきた日本の伝統
つまらない余談はさておき、文字通り心は何処にあるのでしょう。日本の伝統に従えば、どうやら「腹」を在処としてきたようです。「腹を読む」(読めない)、「腹を決める」や「腹を据える」、「腹が大きい・太い」(妊娠ではありません)、身に二心ないことを示すには「腹かっさばいて」見せる(のだが、それでも誰にも見えません)、「腹に一物(手に荷物?)」、心が汚いのは「腹黒い」、心に怒りが生ずれば「腹が立つ」あるいは「腹が煮える」、相手の心が知りたいときは「腹を探る」、もっとも多少部位が上がって「胸三寸」などという表現もありますが、心や心の在り方(度量でしょうか)を示す言葉は、ほとんどすべて「腹」でした。
そういえば、漢方(和風漢方でも)の五臓六腑は、「心臓、肝臓、脾臓、肺臓,腎臓」に「胃、胆、大腸、小腸、膀胱、三焦(現在は特定できません)」ですから、心は「心臓」に宿ると考えているとも言えましょう。念のためですが「三焦」は特定の臓器というよりは、人体を上中下の三つの部分に分ける、という意味が強いと思われます。しかし、いずれにしても、私たちが心の在処として、常識的に考える「脳」は,一顧もされていないのは、不思議と言えば不思議です。
古代ギリシャでは心は脳に宿ると考えられた
こうした考え方を、ヨーロッパ古典時代と比べてみると、その違いがはっきりします。この時代のアレキサンドリア学芸を代表する生理学者エラジストラトス(前3世紀)は、解剖学に長じており、生物を支える原理として、伝統的に考えられてきた「プネウマ」(pneuma)理論を精緻化しました。
プネウマというのは大気中に存在する何かで、呼吸によって生命体に取り込まれるのですが、エラジストラトスは、「自然的」、「動物的」、「精神的」という三種類のプネウマを区別したのです。自然pは植物を含むすべての生き物が、動物pは人間を含む動物すべてが、そして精神pは人間だけが利用するものであり、人体では、呼吸によって取り込まれたプネウマは動脈、静脈によって伝達され、自然pは主として肝臓で、動物pは主として心臓で、そして精神pは主として脳で、利用される、という説を立てていました。ここで「精神」と訳したのは<spiritus>ですが、要するにこの時代にすでに心は、脳に宿ると見做されていたことになります。
心の実在を身体から切り離した近代西欧のデカルト
古代ギリシャを受け継いだ西欧世界では、心の働きが脳に由来することは、ほとんど自明の前提になっていましたが、そうした心の局在論を超えたところで、近代西欧のデカルトは、心の実在を、身体から切り離してしまったと言えましょう。デカルトの言い分を改めて聞いてみましょう。「我思う、ゆえに我在り」を前提として、次のように書いています(『方法序説』アスペン、エグゼクティブ・セミナー用テクスト集から)。
「私は一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない・・・」。
そうだとすると、何処に心はあるのか、という問い自体が、根拠を失います。何故なら「何処に」という問いは場所、つまり空間に関わるものですが、デカルトの言い分に従えば、「心」あるいは「心としての私」は場所と無縁だ、ということなのですから。
こうして一旦空間と物質から隔絶されてしまった「心」は、物質が空間の中で如何に振舞うか、という問いに答えようとする近代西欧の自然科学が扱える対象であることも、拒む実体となりおおせた、ということが出来ます。実際心を扱う心理学が、科学的な性格を身に纏おうとしたとき、アメリカの心理学者J.B.ワトソンは、心理学の対象は「心」ではなく、「振舞い」(behaviour)である、と宣言したのですから。
今AIは、物質としてのコンピューターに、心を認めようとしています。コンピューターの「振舞い」を「心」と認めることは、「我」つまり第一人称以外の他者の「振舞い」を「他人の心」(other mind)と認めることと並行している、と考えれば、何の問題もなくなります。実際、現在生成AIとの対話を、友人や助言者との対話と考えて少しも不自然ではない、と考える若者が増えています。
それで我々は満足できるのでしょうか。
村上陽一郎(むらかみ・よういちろう)
科学史家、科学哲学者・東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授
1936年東京生まれ。東京大学教養学部卒業、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。科学を社会や人間との関わりの中で捉えながら、現代における科学思想を探究している。音楽や古典にも造詣が深い。著書に『人間にとって科学とは何か』『エリートたちの読書会』『移りゆく社会に抗して――三・一一の世紀に』『死ねない時代の哲学』『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』(編著)『エリートと教養――ポストコロナの日本考』『「専門家」とは誰か』(編著)『科学史家の宗教論ノート』など。


