【対話ラウンジ開催レポート/テキスト対話編】アダム・スミス『道徳感情論』を読む―“共感”を如何に育むか

アスペン・セミナー卒業生が期を超えて集まり、さまざまなテーマで対話を行い交流いただくオンラインイベント「対話ラウンジ」。今回は「アダム・スミス『道徳感情論』を読む― “共感”を如何に育むか」と題して、モデレーターに髙橋文郎先生、リソース・パーソンとして大阪大学の堂目卓生先生をお招きし、①『道徳感情論』をもとにした対話、②それを踏まえた全体対話を行いました。

今回の開催レポートは、①のテキストをもとにした対話の概要をまとめました。(②の全体対話のレポートはこちら

堂目先生と髙橋先生による対談

髙橋先生:

アダム・スミスはどのような目的や問題意識を持って、『道徳感情論』を執筆したのでしょうか?

堂目先生:

17世紀後半のヨーロッパでは、宗教戦争を経て宗教の力が相対的に弱まり、科学革命や啓蒙思想が広がっていきました。その中で、聖書や神、信仰だけに頼るのではなく、観察や経験、推論に基づいて、人間と社会を捉え直す必要が生まれました。

そこで問われたのが、人間社会は何によって成り立つのか、人と人を結びつけるものは何か、という問題です。ホッブズ、ロック、ルソーらは、人々が安全や安心のために自由の一部を譲り、法や統治によって秩序をつくるという社会契約説を示しました。

これに対し、スミスやヒュームたちは、社会は本当に契約だけで成り立つのかと問い直しました。明文化された法以前に、人々の間には感情や慣習、コモンセンスがあり、それが社会秩序を支えているのではないかと考えたのです。スミスは、人間を孤立した存在ではなく、他者との関係の中で生きる存在として捉えました。人間には利己的な面もありますが、同時に他者に共感し、つながろうとする性質もある。その共感を通じて常識や道徳、法や秩序が形成される。『道徳感情論』は、そうした観点から書かれたものです。

髙橋先生:

アダム・スミスは『道徳感情論』で「共感」(テキスト訳では「同感」)に注目して議論を展開しています。アダム・スミスは西洋的な個人主義と共感との関係についてどう考えていたのでしょうか。

堂目先生:

スミスは、個人と共感を対立するものとは考えていませんでした。個人主義を、個人の自立と自己決定を重視する考え方とするならば、スミスも個人主義だったと言えるでしょう。しかし、個人は決して孤立しているわけではありません。人は自分で考え、判断する主体であると同時に、他者との関係の中で、感情や意見、知識をやり取りしながら生きています。

また、スミスにとって共感とは、他者の感情がそのまま自分に伝わることではありません。私たちは他人の感情を直接感じることはできない。だからこそ、自分を相手の立場に置き、「もし私がその人だったらどう感じるか」と想像する。その想像力によって共感が生まれると考えたのです。つまり共感とは、「私」が消えて相手と一体化することではなく、自立した個人が互いに相手の立場を想像し、理解しようとする営みなのです。

テキスト『道徳感情論』をもとにした対話

共感は同じ感情を持つことか、想像力か

テキストをもとにした対話では、まずスミスの言う「共感」が、他者の感情をそのまま受け取ることなのか、それとも自分を相手の立場に置いて想像することなのか、という問いが共有されました。

  • 共感には、相手の表情や身体反応を通じて生まれるものと、経験していないこと(例えば「死」)を想像することで生まれるものの両方があると感じた。
  • 自分が想像した感情と、相手の感情や行動が一致すれば、それは適宜性があると納得できる。反対に、自分の想像と大きく異なる場合には、肯定できないものとして受け止められるのではないか。
  • 「我々の想像力が写し取るのは、相手のではなく、我々自身の諸感覚の印象だけである」という箇所に、他者理解の限界を感じた。
  • 日本語の「思いやる」という言葉は、相手の立場に自分の思いを及ぼすという意味で、スミスの共感論に通じるものがある。

共感を支える共通性と、文化・経験による違い

同時に、共感が成り立つための条件についても対話がなされました。

  • スミスの議論には、人間の心は人種や年齢に関係なく、ある程度同じように作られているという前提があるように感じた。
  • 人間には共感し合える共通の性質がある一方で、共感のあり方は文化や経験にも左右される。死への恐怖の描写も、埋葬文化を前提にすると受け止めやすいが、火葬文化の中では実感しにくい面がある。
  • 戦争を知らない世代が増える中で、悲惨さを「生き生きと心に描く」力が弱まれば、共感や情動も生まれにくくなるのではないか。

堂目先生補足:

スミスの「共感」には、大きく二つの使い方があります。一つは、同情や哀れみのように、相手の気持ちを想像し、同じような気持ちになるという意味です。しかし、人は完全に他者と同一化するようにはできていない。もし他者の苦痛をそのまま自分の苦痛として引き受けてしまえば、人は生きていくことができないからです。

「共感」のもう一つの使い方は、相手の立場に立って想像し、その人が表している感情と同じ感情を自分も持てるかどうかを確かめるという意味です。スミスが重視しているのは後者です。相手の立場を想像した結果、「自分だったらそうは感じない」と判断する場合もある。その是認や否認まで含めて、スミスは共感の働きとして捉えています。

「中立的な観察者」と「正しい憤慨」

次にテーマとなったのは、中立的な観察者とは何か、そして正しい憤慨はどのように成り立つのかという問いでした。

  • 人は、自分の行為や感情が他者からどう見られているかを気にしている。自分の中に持つ他者の目、つまり利害関係を離れた中立的な観察者の視点から自分の行為を判断しているのだと思う。
  •  スミスは、人間が利己的であることを前提にしている。だからこそ想像力を働かせ、利己的である相手からどう見られるかを考える必要があり、その先に中立的な観察者や正義という概念が生じるのではないか。
  • 「人類」「隣人」「神聖な正義」といった言葉から、「中立的な観察者」の議論は宗教的、普遍的な視点へ広がった印象を受けた。
  •  「正しい憤慨」とは、単なる怒りや報復感情ではなく、不正に対して自然に湧き上がる義憤であり、中立的な観察者もその怒りを正当なものとして支持するのだと理解した。
  • 一方で、「正しい憤慨」や「正当な動機」と言うとき、何をもって正しいとするのかは難しい。
  • 中立的な観察者は、対立する双方の正義を理解する存在なのか、それとも何らかの正義を前提にして判断する存在なのかという疑問が残る。

堂目先生補足:

中立的な観察者は、外から与えられる絶対的な基準ではありません。人は成長の中で、何をすれば周囲が喜び、怒り、是認し、否認するのかを観察し、自分の中にもう一人の自分として取り込んでいく。正しさが先にあり、それに従う人が中立的な観察者なのではなく、人々の判断の積み重ねがコモンセンスや慣習を形づくり、そこから正しさが生まれていくとスミスは考えます。

フェアプレイと社会のルール

最後に、富や名誉、出世を目指す競争において、どこまでが許され、どこからが許されないかが話し合われました。

  • フェアプレイは、法律のように厳格な正義ではないが、社会が許容できるかどうかを左右する重要な規範だと感じた。法律、フェアプレイ、道徳は段階的に分けて考える必要がある。
  • フェアプレイの枠組みは、参加者が共有するルールに依存している。そのルール自体が、場に参加できる人だけのものになれば、誰かを排除する危険もある。
  • 利己的な自分と利己的な相手の双方に対して中立であろうと想像力を働かせることで、コモンセンスが生まれ、何が許され、何に対して怒るべきかという感覚が生まれるのだと思う。

堂目先生補足:

繰り返しになりますが、ルールや正義は、天から与えられる絶対的なものではなく、人々のやり取りの中で慣習として積み上がっていくとスミスは考えました。その慣習を明確な文言にすれば法律となり、より広く行動を導くものとして整理されれば道徳律となる、という考え方です。

※全体対話編のレポートはこちらからお読みいただけます